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15-ルールでがんじがらめ!?禁止された種々のバッドハビット

-ルールでがんじがらめ!?禁止された種々のバッドハビット

 

 

 

 皆さんはプリナップをご存知だろうか?婚姻契約書と呼ばれるもので婚姻前にルールを決めて契約することで婚姻後のトラブルを失くすといった類のものだ。軽く調べて見るだけでもブリトニー・スピアーズ&ケビン・フェダーライン、ニコール・キッドマン&キース・アーバン、クロエ・カーダシアン&ラマー・オドム、トム・クルーズ&ケイティ・ホームズ・・etc。錚々たる海外セレブがプリナップを結んでいたのだ。そしてこのプリナップ。そう、妻も最初は私に結ばせようとしていた。なぜならば私のバッドハビットが目に余ったからだ。プリナップのように明文化はしなかったが以下のルールを厳守することを俺は求められた。

 

・SNSを辞めること(No SNS)

 俺は今の妻と出会うまでSNSを駆使して周りと交流を取るタイプだった。ツイッター、フェイスブック、ミクシイ、グーグルプラス、インスタグラム等、知名度があるSNSはアカウントを持っていたしSNSがあるおかげで広がる交流の輪もあった。例えばあるライターさんとは自分の出版企画を落とされたことに対する共感のリプでツイッターからフェイスブックにつながり実際に対面したこともある。

 また、フェイスブックにおいてはライターの秘密コミュニティの存在があった。商業出版した者だけが入会できる神聖な場所(厨二感)だ。このような現代のギルド的な存在が実際にはあり、私自身も他の著者の情報をアップデートするために頻繁に利用していた。

 同様にフェイスブックでは小中高大、また、種々の仕事先の友人達ともつながりがあった。普段関わり合いがなくても接点があった人たちの近況をうかがい知ることはリア充爆発しろ!と感じるような悪影響もあったが刺激をもらえることもあった。

 まだまだSNSアカウントがあることでのメリットを記述することはできるがこのくらいにしておこう。俺は妻を愛している。大好きだ。狂しいほどに恋しい。だから全てを捨てた。

 

・アルコールを飲まないこと(No drinking)

 酒が飲めるほうか飲めないほうかといったら前者である。ノミニケーションも好きな方だしビールとハイボールが好きだった。そう、俺は酒を絶った。妻は大の酒嫌い。そんな相手と一緒になるのだから断酒をするのは当然である。酒は好きだった。しかし酒が自分に与えてくれるものといったらなんだ?混濁した思考、過度な食欲くらいで全く身にならない。そう、その純然たる事実には意識的に気づいていたのだが目をそむけていた。その過酷な現実に目を向き合って私はそれに打ち勝った。

 

・エロ動画を見ないこと

 男性諸氏においては御用達のエロ動画。そう、妻はこのエロ動画も禁止した。妻以外の女性で自慰を行うこと。その行いに対して彼女は激怒した。パートナーへの冒涜とまで言い放った。これをやり過ぎと捉えるか当たり前と捉えるかで恋愛関係、夫婦関係の成否は変わってくるのではないだろうか。

 日本人女性との付き合いであればこちらがいくらエロ動画でオ○ニーをしていようが特段指摘を受けることはなかった。もし、その事実が明るみに出ても「男性はそういうことをするもの」という共通認識があるからだ。この共通認識に場の空気を読む器用さ、どうせ言ったところで無駄という諦めにも似た察しの良さを掛け合わせれば日本人男性は自然と甘やかされてしまう。

俺は今までその甘えにかまけてきていた。なぜならば誰にも何にも言われなかったからだ。そんな日本人男性の男尊女卑に凝り固まった価値観。その価値観を四角い頭を丸くするがフレーズの日○研ばりに変えていった。

 

・悪友との縁を切ること

 皆さんには腐れ縁といえる友人はいるだろうか?俺には20年来の親友とも呼べる存在であった男性がいた。小学校4年生の時からの付き合いで関東、関西と在住地が離れても頻繁に連絡を取り合っていたほどだった。それほどウマがあったということだろうか、切れそうで切れない友人関係は「親友」と形容してもよかったかもしれない。しかし、その悪友との付き合いは中々に滑稽なものだった。朝まで浴びるほど酒を飲んだり、居酒屋では近くの席の女性をナンパしたり、ネガティブな事を言い合ったり。非建設的な関係だったのだ。そして、そんな友人関係も縁を切るように諭された。俺が月1で元親友と飲みに行っていることや元親友が妻のことを快く思っていなかったことも影響したようだった。「私と親友どっちが大事なの?選んで。」このような究極の2択を提示された時、私は妻を選んだ。

 これらのようなルールは自己犠牲的な精神がなければ到底なし得ないものである。享受していた種々の自分にとって必要なものと妻を天秤にかける必要があったのだ。しかし、そこで妻を選ぶという選択が自分自身で出来た。そこで俺は妻に対する愛を再確認できたのかもしれない。